ブラジルに滞在した3ヶ月の間、私は1日も欠かすことなく日記をつけていた。
それが去年の4〜6月のことであったので、今はちょうどその1年後にあたり、
そのせいもあって最近はたまにその時の日記を開いてみては、
同じ日付のところを読んで「あぁ、1年前の今日はそんなことがあったのか」といった具合で、
私にしか味わえない密かな楽しみに酔っていたりする。
人に見せることを前提としていない物であるだけあって、
今読んでみると我ながらすごいことを書いているなぁと思ったりする。
つまり、その時書いたことをすっかりと忘れてしまっているわけである。
日々のどうでもいいことであれば別に構わないと思うが、
何かの経験を通して感じたことなんかを忘れてしまっていた時には、
さすがに情けない思いを感じる。
経験値が上がっていないということだもの。
いったい何を学んだというのか?
実はあまり他言はしていないことなのだけれど、ブラジルでの生活中、
かなり追い込まれたり自分が壊れそうになる日々を過ごしたことがあった。
それはブラジルの文化に馴染めないとか、
ブラジルの生活習慣に順応できないとか、
そういった類いのものではない。
もっと深刻で、複雑で、私が置かれた環境特有のドロドロとした問題だ。
でも私自身がそんな経験を無闇に表に出す性格ではないので、
帰国してからもおそらく周りのみんなには明るい話だけを喋っていたはずである。
とにかく、そういう環境に身を置いた時に感じたことをそのまま書いた文章を、
今こうして懐かしみながら読み返してみて、
びっくりするほど覚えていなかったりするから困ったもんである。
その中からふぅーんと思った物をいくつか書いてみると、短い物だと、
「弱さから、人の心に届くメッセージが生まれる」
とか、
「あまりに現実すぎるので、非現実的に見えるのだ」
とかはまだ普通に「そんな時もあるよね」って思う。
でも長い物だと、
「何かをやろうとか、何かを勉強しようとか、
積極性や向上心というものを発生させるものというのは、
忙しいとか忙しくないとかの時間的な問題はあまり関係がない。
それはやる気が起こるか起こらないかという精神的な状態によって決定される。
そして、この精神状態というのはとにかく凡人にとっては環境によって左右されやすい。
つまり、どういう環境に自分を置くか、または作り出すかによって、
人間の勤勉性とか学習意欲を変化させることができる。
しかし、いずれにせよ最初の第一歩は何かのきっかけから生まれることになるので、
その時にうまく動き出せるよう準備だけは、
どんな環境、状態の時にでも済ませておきたいものである」
とか、極めつけの大それたことでいったら、
「許すことや愛すること。それがすがすがしさだ。
私はイエス様の愛の教えは究極だと思った。
凡人にはそこに結びつくまでの間にいくつもの段階がある。
許しであったり尊敬であったりだ。
それが結局のところたどり着くのが愛だ。
それをいきなり全てを表す教えを出しているから、
理解が難しくなるのだろう」
てな感じで、これほんとに自分が書いたの?って思うものばかりだ。
全体的に「道を探している」といった印象を受ける。
という自分の分析を今自分でやってみたりしている。
それでいて、内容があっちにいったりこっちにいったりしている。
そういうところは、今も全く変わっていないようだ。
日記とは、まさに秘伝書だ。
以前の自分を今の自分と比較することができ、
改めるところは改め、諌めるところは諌め、褒めるところは褒めることができる。
自分の成長を自分でチェックすることができる。
ひょっとしたら、奥伝というのは達人が自分の上達具合を確認できるよう、
ある時期に弟子に自分の奥義を授けるのがその始まりだったのだろうか?
なんて考えが浮かんでくるほどだ。
生きるか死ぬかの時代にあって自分の究極を人に教えるなど、
よほど自分はさらに上に行けるという自信がないとできないだろう。
なんて、この考えを膨らませたりするほどだ。
もしそうであるならば、いつか私も奥伝を行えるほどの器の持ち主に
成りたいものだ。
ふむ、どうやら今夜は舌の滑りが良すぎるようだ。
愚者の戯言。
淡い幻。
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