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ざっきの「初めに言葉があった」

〜日々想うことをツラツラと〜

   
カテゴリー「思うところ」の記事一覧

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どうなってんのそこんとこ

最近たまに思うのは、

『自殺する人って、どんな心境なんだろう?』

ってこと。
キッカケはいたって単純。
最近電車の中で読んでる半分実話の本の主人公が自殺したくてしたくてたまらない!って願望の持ち主で、
なぜ自殺したいのかってことがことあるごとに綴られ出すから。

それと、バイト先でなぜか、
「サラリーマンの自殺者数は、統計的に週で見ると月曜日に自殺する率が圧倒的に高い」
という話が出てきたからでもある。
(これは前の会社で総務課長さんから聞かされた話でもある。その時は、ストレスを溜め込まず健康に留意してサラリーマン生活を送りましょうという有り難いお話だった気がする)


このキッカケなるものの前者と後者とでは、
自殺に至る原因は全く異なるのだけれども、
結果だけみればそれは同じことである。
自ら命を絶ちたいと願ったのだ。

本の中の人間は、毎日が同じ事の繰り返しで、
この先10年、20年生きていても全く同じ人生であることを悟り、
そして自分の生きていることの意味が感じられなくなって、
生きる事に興味を失ってしまう…というパターン。

対して現実の人間は、毎日が同じ事の繰り返しだと思われる中において実は激動の日々を送っており、
自らに課せられた重責に耐えられず、
10年も20年も先の事を考えられる余裕もなく、
今目の前にある余りにも大きなプレッシャーの連続に疲れ果て、
週の初め、会社へと向かう橋の上で大した考えもなく、
衝動的にその身を川へと投げる…というパターン。
(半分は想像だけれども(笑)多分こんなとこだと思う)

本のあらすじだと、どうやら主人公は生きることの意味を見出していくそうだけれども(まだそこまでは読んでないけど本の売り込み文句にそう書いてあった)、
じゃあ現実のサラリーマンたちはどうなんだろう?
彼らは追い込まれて死んでいく。
死んだ方が楽だというのは、いったいどれほどの苦しみなんだろう?

これはサラリーマンに絞ったから苦しみという原因だろうと思ったけど、
実際には確かに単に生きるのがオモシロくないという人もいるだろうし、
大切な人を失った悲しみから実行する人もいるだろうし、
誰かの何かのためとかいう人もいるだろうし、
いろんな人がいるんだろうと思う。

その人たちは、どんな心境で未知の扉を開けるのだろう?
今までは誰かが自殺した、という結果だけしか見ていなかった気がする。
それだけ見たら、全部同じだ。
みんな同じ。
自分で死んだ。
でも何を思って自分を殺そうとするのか?
生きている人はそれを勝手に想像するだけ。
本当のことはやった人にしかわからない。
生き証人は精神病院へと送られる。
遺書に本当の事が書かれているとは限らない。


そこんとこ、もうちょっと詳しく、わかってみたい。

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相対世界

世の中には関連性というものがある。
対極性と言った方が分かりやすいかもしれない。
光があるから陰が存在する。
苦い物があるから甘い味を感じる。
他を意識するから自己が形成される。
この世の物には全て対極となる物が存在する。
あの世でもそうなのかもしれないけど、それはよくわからない。

世の中にはバランスというものもある。
対極を作っているものの間にはバランスが存在する。
バランスが崩壊した時はその両極にある物が崩壊した時だ。
運動エネルギーが強まればその物体のポテンシャルエネルギーは弱まる。
大根が豊作なら大根の値が下がる。

しかし妙だ。
そのバランスは他方を強めれば他方が弱まるというパターンだけではない。
他方を強めれば、もう片方も同様に強まるものもある。
いわゆる正の相関があるということだが、これもバランスの一つだ。
光を強めれば陰も強まる。
プラスの磁場だけを強めるということはできない。
必ずマイナスの磁場と連動する。
マクスウェル方程式だ。
いずれにせよ、そこには関連性がある。

私はサイエンスを土台に考えているが、それは解釈の仕方がサイエンス的なだけだ。
物理学も突き進めて行くとどうしても哲学的にならざるを得ない。
自然を理解するということは神様を理解しようとするものに近い。
まぁ科学の出発点がそこにあるわけだから当たり前かもしれないが。
私が物理を好きな理由もそこにある。
人が作ったものを研究するより、人が作れないものを研究する方が、
それを理解した時の喜びも大きいからだ。

しかし土俵が違えど科学も宗教も、哲学も芸術も、全ては同じ物を見ていると思う。
ただ、今はその解釈の仕方が違うだけだ。
いずれそれらは同じ到達点でお互いのアプローチをそれぞれの解釈のもとで正しく理解するだろう。
既にそう唱える人達が世の中にはたくさんいるが、私もその一人だ。

話が逸れたが、兎に角世の中には全て関連性があるということだ。
それは誰もが生活の中でわかっている。
しかし、目の前の他方にばかり注力するのはなぜだ?
そのやり方ではもはや限界であることがわからないのはなぜだ?
アプローチのやり方を変えればいいことに気付かないのはなぜだ?
頂点に立つあなた達は頭がいいはずなのに出来ないのはなぜだ?
守るものを間違っていることを恥じないのはなぜだ?
やはりそれはバランスが崩壊しているからなのか?

そういえば、大昔のインドに中道の真理というものを悟った偉人がいた。
すごい教育を受けてきたあなた達なら苦労せずわかるはずだ。

その心は?

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私は今

今日は雨が降っている。
実際にはそんなことはないはずだけど、なぜだかすごく懐かしい感じがした。
なぜだろう?

歯医者から帰ってきて、すぐに家の中に入らずに、
しばらく玄関口に立って雨が降る様子を見ていた。
雨の降る様子を聞いて、嗅いで、触れていた。

「うん」

と、心の中で不意に頷いて、家の中に入った。
何に頷いたのかは自分でもよくわからない。

自分の部屋に入った後も、灯りも付けずにまた窓の外を見ていた。
何か音楽が聴きたいとふと思った。
そうだ、ピアノの音が聴きたい。
私は今はあまり聴いていない、ピアノのメロディーに乗せて歌う歌手の唄をセレクトして、流した。
それは思いもかけずとても静かな音で、窓の外の雨の音も混じって聴こえる。
まるでピアノと雨がセッションをしている様だった。
私はしばらく、そのまま耳を傾けていた。

ここで、私は気付いた。
私は今『淋しい』気持ちになっているのだ。
でもそれはいわゆる人恋しい類いの物ではない。
どちらかと言えば、郷愁といった感じだった。
哀愁とも言うのか。
何か物語が頭に浮かんだ訳でもない。
ただ、『淋しい』という感情が存在するだけだった。
何が淋しいのかはよくわからない。

少しずつ、私はこのまま思考を繋げていくことにした。
昔はこんな感情をたまに、そしてごく自然に感じていたこと。
最初に懐かしいと感じたのは、この感情が久しぶりだったということ。
そういえば、今はこんな感情を抱くことはあまりない。というより、記憶にないということ。
一つずつ、浮かんでまた次が浮かんで…を繰り返していった。

今は、一つのことがわかった。
私は「心が凝り固まっていた」んだ。
その凝りが、今ようやくホグレようとしていたのだ。
凝り固まることになった要因を取り除いた後も、
ここに至るのにしばらく時間がかかったのだ。
私の心は、それが本来あるべき姿を崩していることに気付き、
そして私にそれを意識させない内に、元に戻すべく働いていたのだ。
なんということだ。
なんという雄大な過程だ。

凝りはまだ完全にはホグレ切っていないだろう。
それはしょうがない事だ。
それでも私の心は今、白い翼を背中に有しているかの如く、
自由に舞い飛翔することができると、そう確信しているのである。
これはつまり、「私のスピリットが『可能性』を見出した」ということを教えてくれている。

昔、ある天才学者が「神はサイコロ遊びをしない」と言った。
それに対し、もう一人の天才は「サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよい」と言った。
私は今、神様はサイコロなんか振らないと考える。
雄大な智慧のプロセスの一端を知っているからだ。

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「雨ニモマケズ現代っ子バージョン」を紹介します

おおぅ…ネットでものすごくオモシロイものを見つけました…(ノ゜o゜)ノ

誰が作ったのかはわからないそうですが、親の子に対する過保護への警告として使って下さいとあったので、気兼ねなく掲載させてもらうことにしました。

先日の記事にある賢治のオリジナルの詩と対比して、読んでみてください。
一見ジョーク物と感じられますが、冷静さを取り戻すと段々と「うぅむぅ」と唸らさせられます。



「雨ニモマケズ現代っ子バージョン」

  雨にもあてず
  風にもあてず
  雪にも 夏の暑さにもあてず
  ぶよぶよの体にたくさん着込み
  意欲も体力もなく いつもぶつぶつ不満を言っている

  毎日塾に追われ テレビに吸い付いて遊ばず
  朝からアクビをし 集会があれば貧血を起こし
  あらゆることを自分のためだけに考えて かえりみず
  作業はぐずぐず 注意散漫すぐに飽き
  そしてすぐ忘れ

  ごみごみした都会の小さなうさぎ小屋にいて
  東に病人あれば
  医者が悪いと言い
  西に疲れた母あれば
  養老院に行けと言い
  南に死にそうな人あれば
  寿命だと言い
  北に喧嘩や訴訟があれば
  遠くから眺めて関わらず

  日照りの時は冷房をかけ
  寒い時は外にも出ず

  みんなに勉強勉強と言われ
  叱られもせず 怖いものも知らず
  ほめられてばかりいる
  そういう現代っ子に誰がした。



どうでしょう?
何なのかは具体的にはわからなくても、何か「ゾッ」っとするものを感じたのは私だけでしょうか?
怖いという感情にも似た感覚を私は覚えました。うまく言えませんけど…。

この風刺的作品もオリジナルの詩と同様な特徴があります。
それは「最後の一行が全てを表現している」という点です。
言い換えると、最後の一行が無ければ、大して意味の無い文章になってしまうのです。
逆に、最後の一行を言いたいが為に、コンコンと何かを綴っているとも言えそうですが、いずれにせよ、効果は絶大です。

これを作った人は、「雨ニモマケズ」のそんな効果を理解した上で、
何かを訴えることを狙ってこれを作ったんでしょうか。
なかなかの切れ者と伺えます。

正直なことを言えば、私は過保護というテーマにあまり感心はありません。
どちらかと言えば、たくましい部類の人間だと自分で思っているからです。
自分の子供にもそうあれと教えるつもりです。
しかし、そんな無関心な人間にもスマートにそちらへ思考を向けさせるだけの力を持った作品であると、私は思っています。

この記事でこの作品を知った方々は、是非、いろいろな方面でこの作品のことを語って欲しいと思います。

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サウイフモノ

この日はなぜか知らないけど、「宮沢賢治」を思い出した。
私は宮沢賢治の童話はいくつか読んだ事があるが、詩はあまり知らない。
知っているのはあの有名な「雨にも負けず」だけ。

でも、この詩がすごく好きで、昔は時々読み返したりしていた。
賢治は生まれつき体が弱く、床に伏すことがしょっちゅうだったそうだ。
そんな生死の狭間で漂っている時に、
枕元に置いてあったメモ帳に記したのがこの詩だという。

彼は仏教の信仰が厚かった。
私が知っている作品を見る限り、その心は作品の至る所に見られる。
それを嫌いだと言う人もいるが、私は嫌いじゃない。
だから、涙も出るのだろう。

今日はちょっぴり、昔を思い出し、またあの詩を読んでみよう。


「雨ニモ負ケズ」

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  欲ハナク
  決シテ瞋(いか)ラズ
  イツモシズカニワラッテヰル
   一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハ
  ナリタイ

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