今日は雨が降っている。
実際にはそんなことはないはずだけど、なぜだかすごく懐かしい感じがした。
なぜだろう?
歯医者から帰ってきて、すぐに家の中に入らずに、
しばらく玄関口に立って雨が降る様子を見ていた。
雨の降る様子を聞いて、嗅いで、触れていた。
「うん」
と、心の中で不意に頷いて、家の中に入った。
何に頷いたのかは自分でもよくわからない。
自分の部屋に入った後も、灯りも付けずにまた窓の外を見ていた。
何か音楽が聴きたいとふと思った。
そうだ、ピアノの音が聴きたい。
私は今はあまり聴いていない、ピアノのメロディーに乗せて歌う歌手の唄をセレクトして、流した。
それは思いもかけずとても静かな音で、窓の外の雨の音も混じって聴こえる。
まるでピアノと雨がセッションをしている様だった。
私はしばらく、そのまま耳を傾けていた。
ここで、私は気付いた。
私は今『淋しい』気持ちになっているのだ。
でもそれはいわゆる人恋しい類いの物ではない。
どちらかと言えば、郷愁といった感じだった。
哀愁とも言うのか。
何か物語が頭に浮かんだ訳でもない。
ただ、『淋しい』という感情が存在するだけだった。
何が淋しいのかはよくわからない。
少しずつ、私はこのまま思考を繋げていくことにした。
昔はこんな感情をたまに、そしてごく自然に感じていたこと。
最初に懐かしいと感じたのは、この感情が久しぶりだったということ。
そういえば、今はこんな感情を抱くことはあまりない。というより、記憶にないということ。
一つずつ、浮かんでまた次が浮かんで…を繰り返していった。
今は、一つのことがわかった。
私は「心が凝り固まっていた」んだ。
その凝りが、今ようやくホグレようとしていたのだ。
凝り固まることになった要因を取り除いた後も、
ここに至るのにしばらく時間がかかったのだ。
私の心は、それが本来あるべき姿を崩していることに気付き、
そして私にそれを意識させない内に、元に戻すべく働いていたのだ。
なんということだ。
なんという雄大な過程だ。
凝りはまだ完全にはホグレ切っていないだろう。
それはしょうがない事だ。
それでも私の心は今、白い翼を背中に有しているかの如く、
自由に舞い飛翔することができると、そう確信しているのである。
これはつまり、「私のスピリットが『可能性』を見出した」ということを教えてくれている。
昔、ある天才学者が「神はサイコロ遊びをしない」と言った。
それに対し、もう一人の天才は「サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよい」と言った。
私は今、神様はサイコロなんか振らないと考える。
雄大な智慧のプロセスの一端を知っているからだ。
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